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  • 入院物語

  • 投稿者:管理人
 
草笛さん物語シリーズ

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  • 週末モード 入院物語 第一章

  • 投稿者:@楽
  • 投稿日:2013年 7月 2日(火)23時20分38秒
 
週末モード 入院物語 第一章 投稿者:草笛  投稿日: 9月30日(金)22時33分14秒

人の人生は入院手術(病気)商売の廃業(倒産)投獄(被疑者となっての取調べ)を経験すると
大きな転機を迎えるといわれている。何かを悟り、吹っ切れるということなのだろう。

その三つともを経験すれば一人前になれると言いきる人さえいる。
できればその上に選挙で落選を経験すると完璧だという。
普通そこまでの経験は、なかなか出来ないものだろう。

幸か不幸か、僕はその全てを経験してしまっている。株式相場で何度もやられて、もはや
これまでというところまで行きながら、なんとかしぶとく生き延びているのも、それらの
経験が無形の財産となって僕を生かしてくれているのではないかと思うことがある。

昭和62年10月初旬、秋のある日、僕は自治会対抗のソフトボール大会に参加していた。
1回戦を勝ち抜き、休憩の時間に不謹慎にもビールが出た。喉が乾いていたのでグイグイと
飲んで、ほろ酔い気分で、ふらふらと2回戦のバッターボックスに立った。
ここで痛烈なヒットを打ってやろうと力まかせにバットを振ったとたん、空振りして
体が1回転し、不自然な形で倒れ込み右足首がボキッと鈍い音を立てた。
声も出ないくらいの激痛が走り、救急車で病院に担ぎこまれた。手術を要する骨折で、
その日から2ヶ月の入院生活が始まった。酒を飲んでスポーツをするものではない。

当時、僕は小売店の店主として表向き生計を立てていた。商っていたのは、寝具、座布団
敷物、カーテンなどだった。田舎では、洋品雑貨や寝具など、なんでも取り扱う店が
多いが、僕の店は品揃えが楽だから、取り扱い商品を絞り込んでいた。
ちなみに掲示板で座布団一枚というのが口癖なのは、座布団を売っていた名残かもしれない。

妻が店番をして、僕が外商、納品、集金をやって店を維持するという、ごくありふれた
パパママストアであった。
食うには困らなかったが、月末に問屋に仕入れ代金を支払うと、残る金はわずかなもので、
「俺はこうして細々と一生を過ごすのかなぁ~」と時たま憂鬱になることがあった。
株式投資を始めるまでは……・・

                       このあと 第二章につづく



  • [7]
  • 入院物語 第二章

  • 投稿者:@楽
  • 投稿日:2013年 7月 2日(火)23時19分36秒
 
週末モード 入院物語 第二章 投稿者:草笛  投稿日: 9月30日(金)22時41分27秒

なんとか副収入を得ようと100万円貯めて、松江の地場の証券会社を意気揚揚と訪れたのは
骨折で入院をする5年前のことだった。株の信用取引で資金の有効活用を図ろうとしたのである。
店頭の女の子に信用の口座を作ってくれと頼むと「200万円以上の入金をお願いします」と
言われた。

是川銀蔵も200万円から始めたというから、地場証券の取り決めで最低保証金が
200万円だったのだろう。懐に100万円しかなかった僕はう~んと唸って黙りこんだ。

「どうなさいました。たった200万円で当社は信用取引きの口座が開けるのですが…」

若い女の子の「たった200万円」という言葉に、僕は思わず唇を噛んで下を向いた。
小売店をやっていると儲けは在庫と売り掛け金に化けて眠ってしまって、手元に金が残らず
いつも資金繰りに追われてピーピー言って暮らすようになる。
だから5万円、10万円が大金に思えるようになってくる。問屋への支払い10万円を
なんとかしようと、払いの悪いお客の門先で夜の8時9時まで帰りを待って、それこそ
たった5000円の集金をすることも、しばしばあった。100万円は大金だった。

苦労して貯めた虎の子の100万円なのに、みっともなくて懐から出すにも出せず、
「もう少し研究して出直します」
と逃げ出すように証券会社店頭から帰った日のことが今でも忘れられない。

ともあれ、なんとか200万円を工面して、サイドビジネスとして株式の信用取引を始めた。
時代も良かったから低位の株を買って寝かしておけば、6ヶ月以内に上がってくれて
それなりの儲けが出ていた。株好きの商店主とも親しくなり、自分が上がると見込んだ株を
教えて、当たると得意になっていた。店には買い物にくる人より、株の話しをしにくる人の
ほうが多くなってきた。僕もそのほうがうれしかったし、楽しかった。全く困った商店主だった。

これまでの物語に書いたように、僕が株好きだという噂を聞きつけて、だんだん回りに
株で儲けたいという人が集まってきて、僕の言う銘柄をグループとして買うように
なってきた。そのせいもあって、当たる確率が高くなって、ますます儲かった。

とはいっても、あくまでも本業は小売業であった。
毎晩の飲み代くらいは、株の売買益から十分出せるようになったので、小売店の店主としては、
商工会の仲間や問屋とのつきあいも他の人より派手目にこなしていた。
問屋の若い衆からは、社長社長とおだてられ、ときには問屋の接待で温泉などに一泊旅行に
連れて行ってもらい、カラオケ歌って、仲居さんとドンチャン騒ぎをして
自分の人生、まぁこんなもんでいいか、と自分にいいきかせていたのであった。

しかし、人生一寸先は闇である。この骨折での入院を機に、僕の人生は、どこにでも
あるような、平穏な小売店主としての道を大きくそれていったのである。


     ◎明日の晩は出かけるので 続きの第三章はあさって日曜日の夜に放映します

  • [6]
  • 入院物語 第三章

  • 投稿者:@楽
  • 投稿日:2013年 7月 2日(火)23時17分2秒
 
休日モード 入院物語 第三章 投稿者:草笛  投稿日:10月 2日(日)20時51分54秒

入院して、数日後に手術が行われた。部分麻酔なのでドリルで骨に穴を開ける音が聞こえ
無気味だった。僕は注射さえも嫌いな男なので、はっきり言って手術は恐かった。
折れた骨をボルトで止める手術は無事終わったが、骨がくっついたらそのボルトを抜く手術を
またしなければならなかった。退院は12月になる予定だと医者から言われた。

足首を骨折すると2ヶ月で退院しても、その後も当分まともには歩けない。ギブスで固定しているため、足首が急には自由には動かずしゃがむこともできない。半年くらいはまともに歩けず
休業しなくてはならない。病気なんかしたことがなかったので、つきあいで、いろいろ保険に
入っていたが、入院特約はケチって外してもらうようにしていた。だから入院保険太りとも
無縁だった

折れた足首も痛かったが頭も痛かった。零細な小売店は店主が働けなくなると一瞬にして地獄を
見る。八百屋などの食料品店と違って、寝具や呉服は店でほいほい売れるものではなく
主に外商で売るものだから、店主が入院してしまうと、売上がガタ落ちとなるのである。
手形を切って仕入れしているから、売上がなくても毎月、手形を落とさねばならないが、集金も
ままならない。どうしたものかと、ベットの上で手術後の痛みにうめきながらも考え込んで
しまった。

「いやいや、案ずることはない。僕には株式という蓄えがある。こんな時のためにサイドビジネスとして株式投資をやってきたのだ。株式投資をやってて本当に良かったなぁ~」

入院中の昭和62年10月の半ばに日経ダウは26000円という史上最高値に到達していた。
僕は狙いをつけた株を現物で目一杯買い、その株券担保に同じ株を信用取引で買うという
強気の2階建て投資法で、儲けていた。担保にしている銘柄と信用で買う銘柄が異なることも
あったが、株券担保に信用で株を買うことは、いずれにせよ強気な投資法で、広義の意味で
2階建てといえる。

信用取引は現金担保か、債券を担保にして行うべきだという結論に達したのは、
バブル崩壊で壊滅的痛手を負ってからであるが、この頃は行け行けどんどんだった。
バブル崩壊までは2階建投資法は実に有効な戦術だった。銘柄を当て続けていたから、
2階建の危険性など考えもしなかったのだ。

200万円の元手が雪だるまのように膨れあがって、株券ではあったが、数千万円になっていた
そのため、日々の寝具店の売上より、株の売買益がはるかに多いという状態が、たびたびあった。
万年強気の順張り、買い上がり、買い捲りが時流にぴったりと合っていた。そして株券は現金
と同じだと思っていたし、信用買いの建て玉も自分の財産のように思い込んでいた。
もちろん骨折して入院したときも、あれやこれやを目一杯2階建てで張っていた。

まだまだ、これから株は上がると依然強気であったが、入院という逆境には抗すべくもない。
仕方がないから株を売って金にして当面の資金繰りと生活費を手当てしておくことにした。
株の儲けは、全て株の再投資に回していたが、ここらで一旦お金にするのもよいだろう。
株をやっていたからこそ、こうして安心して悠々とベッドで寝ておられると、他の患者を
尻目にひとりほくそえんでいた。ところが・・・・・・・・・・

昭和62年10月19日、突如ニューヨーク市場が大暴落した。ブラックマンデーである。
病室でそのニュースを知って、驚き慌てた。10月20日、朝、病室から松葉杖を頼りに
這うようにして、長い廊下の向こうにある公衆電話までやっとのことで辿り着き、
担当の証券マンに震える指でダイヤルを回した。

「東京市場は、ど、ど、ど、どうなんだ!」
「ダメです。全銘柄売り気配です。こんなすごい下げは見たことありません!」

証券マンは興奮して大声で返してきた。

「俺は、いま金が要るんだ、なんとかならんのか!」
「売り一色で買い物はありません!どれもこれもストップ安でも売れそうもありません。
 目一杯建てておられるから間違い無く追証発生ですよ。
 お金をお出しするどころか、むしろ入れていただかないと…」

これには参った。弱り目に祟り目とは、このことだった。2階建てで低位株を買っていたので
売り気配のまま80円も下がると、元本が半分近くに減る。ストップ安が連日続けば、無一文になってしまう。
なんという不幸な身の上なのだろう。どうして、こういう骨折して状況が苦しいときに
こんなに不幸な大暴落が発生しなければならないのだ。僕は手術後の足首の痛みも忘れて、
天を仰いでうめき声をあげた

                 来週の週末の第4章につづく

  • [5]
  • 入院物語 第4章

  • 投稿者:@楽
  • 投稿日:2013年 7月 2日(火)23時15分5秒
 
休日モード 入院物語 第4章 投稿者:草笛  投稿日:10月 8日(土)21時02分35秒 153.96.112.219.ap.yournet.ne.jp

人には宿命があり、宿命に逆らっては、いかに努力してもうまくいかないように思えてならない。
たとえば、仕事ひとつをとってみても、自分に向かない仕事に就いて、朝から晩まで働いても
たいした成果は上がらず、大成することはない。一生働いて、残ったのは借金だけだったという
悲しい話はどこにでもある話である。心のどこかにブレーキがかかっているから
どんなにアクセルを踏んでも、スピードが出ないのだ。

遊びに例えれば、麻雀をやっていて
ツキがなくて配牌もツモも悪いときに、いかにあがいて上がろうとしても上がれず、
逆に相手に振り込んで自滅していくのにも似ている。
自分で、この方面は向いていると思い込んでいても、大きな見当違いという場合もあるから
注意しなければならない。方向違いの思い込みは、悲劇というより喜劇というべきで、音痴の人
が歌手になろうとするような、傍目には笑える話でしかなく、同情する人とていない。

僕は小売店の小商人であったが、株式投資で強気強気の買いで儲けるうちに、自分は相場の
才能があるのだ、思うようになっていた。僕の寝具店の応接間にはテレビの文字放送の株式実況
がつけっぱなしだった。店は近隣の株好きの商店主の溜まり場になっていたことはすでに述べたが
彼等は僕よりみんな年長者で、株の経験も長い人が多かった。そんな人達が当たり屋につけと
僕に会いにやってくるのだ。初めは、恐る恐る、「この株は上がるかもしれないですよ」という
言い方をしていたのだが、だんだんいい気になってきて「この株は必ず上がる、僕を信じなさい
信じる者は救われます」と言うようになってきていた。

明日のことは誰にも分からない。
その分からないことの代表ともいうべき株に大切なお金を投資するのだから、
誰もが何かにすがりたい気持ちが心に生じてくる。それは何十年相場をやっていても同じだ。
そういうとき、キッパリとこうなると言い切る僕が頼もしく感じられたのだろう。
僕のいう銘柄に惹かれて遠くからも続々と人々が集まり出して、門前市をなす有様となった。

たまに布団やシーツを買いにくる女性客が来たが、おやじが多数たむろして、口角泡を
飛ばして、「買いだ!いや売りだ!やっぱり買いだ!信じる者は救われる!」とわいわいやって
いたので、目をまるくして驚いていた。
僕は山積みの布団を背にして、すっかり相場の神様気取りで講釈を垂れていたのである。

その頃、僕が一番沢山買っていたのは東京2部の7235東京ラジエーターといういすゞ系の
電装会社で、みんなに奨めて買わせていた。人気のない株で200円台、300円台を行ったり
きたりしている株だった。藤沢市に広大な工場を持っているのを現地まで見に行って確認し
これならいずれ含み資産株として化けるだろうと、売り物を片っ端から買いつけ、僕のもとに
やってくる株好きのオヤジさんたちにも買わせていた。

この会社は昭和36年に上場して以来、実に25年間、440円以上の株価をつけたことが
ないという万年低位株だった。僕がこの440円を抜いてやろう、新値をつければ必ず提灯が
つくだろうと考えた。「450円は僕が買う!僕に買わせてくれ!」と叫びつつ買い進み
そして、昭和62年10月、遂に455円と上場来高値をつけて得意満面、さあこれからだ、と
いう矢先に骨折入院したうえに、ブラックマンデイの歴史的大暴落に遭遇してしまったのだ。

その日は日経ダウが3836円幅も下げるという前代未聞の大暴落で、ほとんどの株がストップ安
かストップ安売り気配だったと記憶している。値がついた株も売り物殺到で比例配分で値をつけ
なお売り物を残していたと思う。東京ラジエーターも例外ではありえず、ストップ安で370円
となり、営々と努力して新高値をつけたのに、たった一日で、元の木阿弥となった。

翌日もストップ安で290円▲80円となるのは99%確実だった。
そうなると追証請求が来るが、僕には追証のお金を払うあてなどなかった。
自動的に証券会社が信用建て玉と担保株を投売りしてすべてを清算することになるわけだ。

                明日 日曜日の夜の第5章につづく

  • [4]
  • 入院物語 第五章

  • 投稿者:@楽
  • 投稿日:2013年 7月 2日(火)23時13分25秒
 
休日モード 入院物語 第五章 投稿者:草笛  投稿日:10月 9日(日)20時32分35秒 153.96.112.219.ap.yournet.ne.jp

史上最大の大暴落相場の初日が終わって東京ラヂエーターは行って来いの300円台に
戻ってしまったが、意外なことに自分で思ったほど悲壮感がわいてこなかった。
自分という人間は一体どういう神経なんだろう。

一日で3800円幅もダウが下げると、なにか、やけくそ的な明るさが出てくるものだ。
矢でも鉄砲でも持って来い。煮るなと焼くなと好きなようにさばいてくれ、
そんな気持ちになってきたのだ。

所詮、僕の人生は、この程度のものだったんだ。田舎の小売店主が相場師づらをして
相場を語ったり、人様に株を推奨したりするから、天罰が下ったのだ。無一文から、やり直そう。
小売店のささやかな売上で、一生チマチマと生きていくのが身の定めだったのだ。これでいい。
これでいいのだ。ほんの短い間だったが、天下をとったような、いい夢を見させてもらった。
それでよしとしなければならない。

そう自分に言い聞かせると、開き直って吹っ切れてきた。
日本が戦争に負けて焼け野が原になったとき、人々が妙に明るかったと言われているが、
すべてが崩壊し、すべてを失ったとき、人は案外さばさばした気持ちになるものなのかもしれない。

しかし事実は小説より奇なり。東京ラジエーターは、翌日なぜか上げた。
連続ストップ安で200円台になると覚悟していたのに、逆に400円台にリバウンドした。
奇跡が起きたのだ。追証もかかることなく、僕は破滅から救われた。

東京ラジエーターに惚れ込んで集中投資していたので、
多くの被害者を出したブラックマンデー大暴落の被害は僕に関してはまったくなかったのだ。
目一杯信用の二階建てしていて、日経ダウ(今は日経225という)が一日3800円幅も
下がったのに、追い証で破滅しなかったなんてまさしく嘘のような話であった。

自分の半生を振り返ると、もはやこれまでという逆境でも首の皮一枚残して生き延びてきたが、
僕はブラックマンデーに遭遇しても、神のご加護のおかげでしのぐことができた。
逆境に追い込まれたとき、弱気になるとよけいに落ち込み事態が悪くなってしまうものだ。

逆境になったとき、逆境にいることをむしろ
「普通では考えられない面白い体験をさせていただいて感謝感謝 絶好調~~」
と居直って楽しむことが、よい結果を呼び起こすのかもしれない。皆様もやってみてください。

               このあとすぐ 第6章につづく

  • [3]
  • 入院物語 第六章

  • 投稿者:@楽
  • 投稿日:2013年 7月 2日(火)23時12分12秒
 
休日モード 入院物語 第六章 投稿者:草笛  投稿日:10月 9日(日)20時38分17秒 153.96.112.219.ap.yournet.ne.jp

入院物語なのだから病院での生活中のエピソードも書いておかねばなるまい。
すごく恥ずかしくて気持ちよかった話から始めよう。

入院した病院は県内最大の大きな病院だった。入院患者も多く、看護婦さんも多かった。山で女性がみな美人に見えるように、病院に入院していると看護婦さんがみな美人に見えるものだ。実際に若い看護婦さんが多く皆さん綺麗だった。手術前から部屋の担当で、
なにかと世話をしてくれたのは中山美穂に似た美人の看護婦さんだった。
入院生活も悪くないなと思ったのも彼女の存在があったからだ。

手術をした日の夜、麻酔が醒めてきて激しい痛みに苦しんだ。しかしもっと苦しかったことは
麻酔の後遺症で小水が出ないことだった。膀胱がぱんぱんに膨れ上がり、小便がしたくてたまら
ないのに尿瓶を股間にあてても全然小便が出てこないのだ。これには参ってしまい、あまりの苦
しさに深夜、ナースコールをした。

「どうされました?足首が痛みますか?痛み止めの薬を差し上げましょうか?」

くだんの看護婦さんがやさしく訊いてくれた

「あの~恥ずかしながら、小便がでなくて苦しくてたまらんのです。なにか薬をください!」

「そうですか。ちょっと待っててください」

看護婦さんは、ビニールのチューブを手にして戻ってきた。

「楽円さん パンツを脱いでください」
「ええ~~!なにをするんですか!!そんなの恥ずかしいですよ!!」

看護婦さんは有無を言わさず、一物を握ると先っぽの小さな尿道の穴にチューブを挿しこんで
奥へ奥へと入れた。

「ひえ~~~!!!」

僕は最初は痛みにうめいたが、次の瞬間、えもいわれぬ快感に浸っていた。
チューブを通して、たまりにたまった尿が尿瓶の中に流れていった。ぱんぱんに膨れていた
膀胱がスウーと小さくなっていくのがわかった。こんな気持ちのよいことはかって経験したことがなかった。
これ以後、入院生活の間中、中山美穂に似た、この看護婦さんに頭が上がらなくなった。

僕は楽天的な性格なので、入院生活を適当にエンジョイしていた。僕は将棋と碁が打てたので、
あちこちの病室からお呼びがかかった。碁は石を置けばそれなりにランクが違う者同士が打てる
ものだ。碁の好きなオジイさんたちから相手をしてくれとよく頼まれた。入院患者のあいだでは
碁より大衆的な将棋のほうがむしろ人気があった。

たまたま背中一面に龍の彫り物をした組長が入院していて、この組長が無類の将棋好きだった。
お互いの力量が同じくらいで面白い将棋になるので、組長から特命で指名がかかり毎日組長と将棋を指していた。病院という場所は無防備なのでヒットマンに命を狙われることが多い。そのため組員二人がいつも警護についていた。

組長と将棋を指している間は、組長の大事なお客様扱いだった。組員は使い走りもしてくれたし、
僕がタバコをくわえるとサっと火をつけてくれるので気分がよかった。入院でもしないかぎり、
こんな経験をすることは一生なかったろう。他の入院患者は組長を恐がって遠巻きに眺めていた。
ヒットマンに狙われたら、流れ弾に当って一緒に死なねばならないから、それも当然のことだった。

この組長とは病院では毎日将棋を指し、風呂も一緒に入るほど親しくしていたが、退院したあとは
一切連絡はしてこなかった。堅気の人間とは一線を画す仁義の人だったのだろう。
将棋仲間としてはとてもさっぱりしたよい人だった。
その後しばらくして、組長は亡くなったと風の便りに聞いた・・・・・・

                   明日月曜日の夜 第七章につづく


  • [2]
  • 入院物語 第七章

  • 投稿者:@楽
  • 投稿日:2013年 7月 2日(火)23時10分37秒
 
休日モード 入院物語 第七章 投稿者:草笛  投稿日:10月10日(月)21時10分27秒 153.96.112.219.ap.yournet.ne.jp

骨折で入院した患者は身体は病人ではないからみな元気だ。女の患者さんたちも元気で、女性の
病室からもよくお呼びがかかった。6人部屋の女性の患者たちがいろんなお菓子を並べて食べさ
せてくれた。男と話すことが退屈しのぎにもってこいだったのだろう。

原則として女性患者の部屋に男の患者が入り込むことは禁止されていたのか、看護婦さんが
やってきては「ダメよここにいちゃあ~出て行きなさい!」と追い払われた。女性の患者さん
たちが「固いこと言わないでよ 私たちが呼んだのよ」と僕をかばってくれたものだ。

沢山の女性患者のなかに30歳前後の色っぽい奥さんがいて目立っていた。やはり足の骨を折っ
て入院していた。松葉杖同士でお互い話しが合った。病院内の喫茶店で二人でコーヒーを飲んだ
りして恋人同士のデート気分だった。お菓子をくれるときも「このお菓子、私を食べると思って
食べてね・・・」などと言って渡してくれたし、「松葉杖にギブス同士では、お相手もできないわね、ごめんね・・・」などと言って気を引き、僕をその気にさせるお茶目な人だった。
「病院生活は女にとっていいものよ。洗濯、炊事、掃除、旦那の世話、なんにもしなくていいんだからとっても楽だわ。それにあなたとこうして毎日、馬鹿話しもできるしね」
人はどこにいても、どういう状況でも、その気になればそれなりの楽しみは見つけられるものだ。

病院のほうが楽でいいといっていた彼女だったが、週末の夜に一時外泊を申請して家に帰っていった。

「旦那の相手をしなきゃならんから、やりに帰るんだがネ ふふふふ ひひひひ」

と、年増のご婦人方が僕にエロい噂話をしてくれた。僕は彼女を病院妻みたいに思っていたので
ギブスをした不自由な姿勢で今頃旦那と睦み合っているんだなと想像すると悩ましく、その日の夜はさすがにしみじみと淋しかった。

僕も身体は元気なので辛抱たまらず、翌週、週末外泊を医師にお願いして許可をもらった。
妻に電話して「こんどの週末は外泊の許可が出たから帰宅するよ」と張り切って電話したら、
「病人はおとなしく病院にいなさい!あんたに松葉杖で家の中をうろうろされたら邪魔よ!!」
と迎えに来ることを断られた。これが気の強い妻を持つ者の宿命というものなのだと思い知らされた。

入院中も日本経済新聞は欠かさず読んでいたが、12月のある日、すごい記事を目にした。
なんと一面の記事に「東京ラジエーター、日本電装(現在6902デンソー)傘下入り」
というスクープが書かれていたのである。日本電装はトヨタ系の電装品の優良会社で、安定的
に高収益を上げており、株価も常に高い超値嵩株だった。日本電装の傘下に入るという記事は願
ってもない良いニュースだった。土俵際の大逆転であった。僕は病院のベッドの上で、
こみ上げる笑いをとめるのに、必死だった。回りの患者は骨折やヘルニアで苦しんでいる人
ばかりなので、大声で笑うのが気がひけたから、誰もいない面会室まで行って、やったやったと
大喜びで笑い続けた。ひとしきり笑ったあとで、うれしくて泣けてきた。

信じる者は救われる、信じる者は必ず救われるのだ、そう他人に言っていた自分が、もう信じる
心を失いかけていたのだ。株をやる金も失って、元の零細な小売店主に戻らねばならないはずの
身の上が、一転、大勝利して大儲けが約束されたのだ。ブラックマンデー当日には絶望の淵にい
た僕だったから、この9回裏の大逆転満塁ホームランがどれだけうれしかったか、文章にするの
は不可能だ。

その日から東京ラジエーターは連日のストップ高で、なんと1000円の大台を突破した。
440円の壁を突破するのに苦労していたことが嘘のような上げっぷり、大暴騰であった。

こう言うと、すべての株がそうだったのだろうと読者は思われるのかもしれないが、ブラック
マンディの傷跡は大きくて、他の株は多少はリバウンドしたが高値からは沈んだままで、
日経ダウが昭和62年10月につけた高値26646円を回復するには、約半年後の昭和63年4月まで待たねばならなかった。であるが故に東京ラジエーターがブラックマンディの後に
ストップ高を連発する姿は、2部株とは言えまさしく野中の一本杉と言えた。
同じ東京2部のスーパーバッグの4000円台とともに東京株式市場の奇跡だった。

            このあと すぐ 第八章(最終章)につづく

  • [1]
  • 休日モード 入院物語 第八章(最終章)

  • 投稿者:
  • 投稿日:2013年 7月 2日(火)23時09分21秒
 
休日モード 入院物語 第八章(最終章) 投稿者:草笛  投稿日:10月10日(月)21時17分0秒 153.96.112.219.ap.yournet.ne.jp

なんという強運の持ち主なのだろう、と我ながら自分の運命に感動した。信じる者は救われる!
いう僕の言葉を鵜呑みして、東京ラジエーターを買っていた店に来る常連たちも、この奇跡の
ような出来事に大騒ぎだった。これ以来、僕への信頼が定まって一段と仲間が増えていった。
僕も、自分はやはり人とは違うんじゃないか、霊力があるんではないかと、またしても
自分を過大評価するようになった。喉もと過ぎれば熱さを忘れるものとはよく言ったものだ。
この思い上がりが完膚無きまでに叩きつぶされるには、バブル崩壊まで待たねばならなかった。
ここからしばらくは、得意満面、絶頂の日々が続くことになる。

ちなみに東京ラヂエーターが日本電装の傘下に入るという記事は日経新聞の推測記事でしかなく、
誤報と言ってもよいような記事であった。そのため1月に1390円まで駆け上ったあと株価は
反落し、後のバブル相場の時でさえ、そういう高値はもう二度とつけることはなかった。
僕が1390円をつける過程で、全ての持ち株をきれいに売り抜けたのは言うまでもない。

退院してからも、松葉杖の生活が続き、店はシャッターを降ろして休業していた。
一方、株式市場は、春にはブラックマンディ前の高値を回復し順調に上がって行った。
東京ラジエーターでの勝利で、資金は着実に増えていたから、いよいよ株の銘柄研究に
力が入った。会社四季報や株の本、株の雑誌を読んでいると熱中して夜の更けるのも忘れる
くらいだった。そんな僕をじっと見ていて妻が言った。

「あんたは本当に株が好きなのね。だったら思い切って株の売買だけで身を立ててみたら?
 田舎で小売店をやっていたって、先は見えているわ。あんたくらい熱心に株をやっていれば
 株で生きていけるんじゃないの?店をこのまま畳んで相場一本でやりなさいよ」

「お前はそう言うけど、株もいいときばかりじゃないし、小売店は大儲けはできないが確実に
 親子の食い扶持くらいにはなる。足が治ったら、いままで通り、店をやりながら、株の売買を
 やってるほうが無難なんじゃないか?世間体もあるしな…」

僕はふんぎりがつかずに、妻の提案を退けた。

「あんた、男でしょ。男なら勝負してみなさいよ。あんたがこの程度の零細小売店の店主で一生
 終わるならあんたと結婚して大失敗だわ。あんたなら株一本で成功できると思う」

妻は、あくまでも相場に生きろと言い張る。普通は、おやじが株に手を出して、妻に
やめてくれと叱られることになっているのに、我が家は逆だった。妻が株で生きろ、
株で生きろと背中を押すのである。

妻の言うことにも一理あった。田舎でもショッピングセンターの時代となりかけていた。
昔ながらの個人商店はいづれ苦しい環境に追い詰められていくだろうことは感じていた。

骨折する前に、問屋の招待で台湾旅行に行ったときのことである。仕入れのコンクールみたいな
ものがあり、沢山仕入れたら、台湾へ連れていってくれたのだ。目的は遊びだったが、観光だと
いうと、どの小売店も奥さんが威張っていて、浮気でもされてはたまらないから許可が下りない。
そこで流通視察という名目にして出掛けて、言い訳の為に台北のショッピングセンター
を視察した。

そこで僕はカルチャーショックを受けた。台北のショッピングセンターが広くて明るくて、
品物が豊富で、都会的だったからだ。アメリカやヨーロッパで、そういう店を見ても
ショックを受けなかっただろうが、日本より遅れていると信じ込んでいた台湾で、そういう
先進的な店を見たことは驚きだった。日本で、昔風の小売店をやっていることに疑問が生じた。
台湾でさえ、ショッピングセンターの時代になっている。進んでいるはずの日本にいてのんびり小売店をやっている場合じゃない、と痛烈に感じたのである。

結局、休業のシャッターはそのままずうっと降ろし放しとなり、僕は妻の言う通り株の投資専業で
生きる事になった。幸運なことに時代はまさしくバブルに向かって突入しようとしていた…・・

                                 入院物語 完